躰の傷など取るに足らないことだと言う。
傷つくことで強くなれるのならばそれを選ぶという。

その身に受ける暴力が強くなるために有効だとは思えない。
訳も分からずに、なにかに煩わされてもがいているように見えた。

屈折することを知らずに、巧くやるにはまっすぐすぎる。
傷つけるすべてのものから護りたいと思う。

だけど。
それをしないのは自分の意志。
あきれるほどの不器用さをありのまま受け入れてやりたい。
そのことこそが、最も難しいのだと気づく。





 soul / solid / survivor. 





予感を、すべて嗅ぎ取っていたらキリがない。
繋がらない電話。
なんども、雑踏の中から消える姿。
そのたびに心を覆う。
慣れることなどない、慣れてはいけない痛み。

 運河にかかる高架からは時折無愛想なヘッドライトが。川向こうの乱雑なビルには まだ明かりがつきはじめている。広告のネオンサインも、すべての光はまだ、空気の 中の光に惑わされてぼんやりと光っている。

朝から、曇り。

 壊れたフェンスをくぐって、プレハブの間を歩いていく。靴を白くする乾いた土と 、雑草。よくもまあ、これほどまでに人気のない、大多数の喧嘩にはもってこいの場 所を見つけたものだと思う。
河からの風に晒されて錆びたトタンを曲がる。
 ため息。
「半屋。」
 仰向けに寝ころんだ彼は、その唇に曲がった煙草をくわえていた。彼のまわりの砂 には、何かを引きずっていった痕跡があった。使い物にならなくなった仲間を見捨て ないだけマシだ。
 近づいていけば、彼は目を開けていて、影差した視界に気付いて嘉神を捕らえる。
 途端に、感情をなくしたような目が、白けたような色に変わるのだ。躰はぴくりと も動かない。
 嘉神は半屋の傍らに膝をつく。額を切って、銀色の髪に乾いた血がこびりつく。出 血はそれほどない。ただまた肋骨でもやられたのか息をするたびに頬が引きつる。濡 らしたハンカチで額を拭った。白い白い肌。また顔を傷だらけにした。どうして巧く やらない?どうして防御して、軽くあしらわない?
言っても仕方のない台詞が頭の中を高速で何度も繰り返す。
 半屋は目を閉じなかった。  視線だけが、自分の顔を見つめている。もうとっくに息も整うはずなのに、浅い早 い呼吸が唇から。それなのに目の色は平然としている。
 火のない煙草。

 強情っぱり。

前の喧嘩の傷も治らぬうちになにをしてる。
止める術はどこにある?
どこかに繋いで閉じこめておけば平穏でいられるのか。


 否。
 嘉神は半屋の唇から煙草を取り上げた。抗議するような目が自分を追う。
消えそうなその光。
「半屋。」
 静かな声で語りかける。半屋が訊いていようがいまいが本当は関係なかった。ただその 思いを自分の中から出したいのだ。
「お前が自分や他人を傷つける根底にある信条を俺は知らない。」
 夜の風が水面から流れてくる。
 ずっと考えていた。半屋は多分、梧桐を選ぶべきだったと。
 何故自分なのか、考えることがある。それを半屋に尋ねることは馬鹿げたことだ。
梧桐なら、半屋と共に闘うことができるような気がするのだ。それは信条とか正義 とかに関わることではなく、肉体的な闘いに限ることでもなく。
 この二人なら、肩を並べ背中を合わせて世界に対峙することができるだろう。
だが自分は。
「俺は自分の正義を曲げられない。お前と他の誰かが絶望的な状況にいて、どちらかを 一方しか救えないとしたら、俺はお前を選ばないかもしれない。」
 どうしてそう思うのだろう。誰よりも大切な人だと思う。なのに知らない誰かを選ぶ かもしれない。それはずっと心のうちにあったものだ。
 大切すぎてその存在を自分の一部に取り込んでしまったのか。それで犠牲にする躊躇 を少なくしたのか。どうしても想像できなかった。差し伸べた自分の手、その手を取る 半屋。どちらも、自分の中にない。
 半屋はもちろん黙っている。その目だけがぼんやりと嘉神をとらえて。


「半屋、目を閉じろ。」
 失いそうな意識を無理に繋ぎ止めている。それはわかっていた。
 目を閉じるのが怖いのか。
「今は傍にいる。約束する。」
 半屋は目を閉じようとしない。嘉神をじっと見つめている。
 望まない。お前の正義を曲げることなど。
 通じたかどうかわからない。嘉神は自分を安心させるように微かに笑うのだ。
「お前がまた目を覚ますまで傍にいる。」
 温かい大きな手が胸に置かれる。吸い寄せられるように半屋は目を閉じた。





夢の中にはまた彼がいる。
どうして荷物を自分一人で背負おうとするのだろう。
小さな荷物一つくらいなら持ってやっても構わない。
大して何も持たない半屋の荷物ですら嘉神は奪おうとするかもしれない。
『俺が抱えてやる』と。


だけど違う。
嘉神は自分を突き放した。
俺は俺であり、お前はお前だと。
胸が痛んだ。
だけど前よりイイ。


嘉神がいる。







目を開ける。知らない天井を予想した。
「半屋。全く世話を焼かせるな、お前は。」
 世話焼き顔をした嘉神の顔が飛び込んでくる。
「……るせぇ。」
 ガラガラと掠れた声しか出ない。体中が痛い。一体自分が一人で何人相手にしたのか もう思い出せない。なんか雑魚がいっぱいいた。いっぱいいすぎてわけわかんなくなっ た。
「先ほどお前の姉上がいらっしゃったぞ。」
 目を覚ます前に帰るとは薄情だがいい加減自分の弟のダメージの受け具合もわかって いるのだろう。あとは嘉神をみて安心して帰ったのか。


 なんだか『痛まないか?』とか『雑誌でも買ってこようか?』なんて世話焼いてたの も嘉神らしい。今はベッドの横に腰掛けて本を読んでいる。手にした本の帯に『ニット の貴公子』などと記されているのは笑うところなのかどうか、悩む。


 ここには嘉神らしい嘉神がいる。
 川縁で、自分に語りかけていた嘉神がらしくなかったわけじゃない。あれもこいつだ、 と思う。だけどアレが現実だったのか自信がない。河を渡る生暖かい風を覚えているの に。
 ただ思う。
 護られたいわけじゃない。


 目を閉じて、目を覚ましたらそこに嘉神はいないかも知れない。
 明日ここにいないのは自分の方かもしれない。
 それでも無理矢理に繋ぎ止めようとは思わない。
 絶望的な自分に手を差し伸べる嘉神も、その手を取る自分も自分の中にいない。


 半屋は目を閉じる。
『約束する。お前が目を覚ますまでここにいる。』
 それが今だけでもいい。
 必要だと思うなら自分で捜せばいい。考えるよりも行動する方が自分に合ってる。今 日は目を閉じてしまった。嘉神に甘えた。
 だがもう目を閉じたりはしない。


 眠るのかと思った半屋がベッドから起き出す。嘉神は顔を上げた。手にした本が 編み物のマニュアル本なのはご愛敬だ。
「何処へ行く。」
 尋ねると背中を向けたままで応える。応えには、なっていないが。
「るせぇ。」
 嘉神は本を置いて立ち上がる。手助けはしない。半屋が足を引きずって歩くのを見て いる。重そうだがすぐに復活するんだろう。
 どこにいくのか想像はついてる。
「傷口から煙が出るぞ。」
 廊下を並んでのろのろと歩く。半屋がだるそうなのはいつものことだ。
「あぁ?傷口なんかねえよ。」
 本人はどこも縫ってないからとでも言いたかったのだろう。非情にも嘉神はガーゼの 貼ってある額を指で小突く。
「…ってぇー。」
 半屋が顔をしかめる。
「ここから煙がでたら見物だな。ちなみに財布も煙草も姉上が持って帰られたぞ。」
 半屋の顔が間抜けに呆然とする。そしてすぐにいつもの険しい顔。
「金貸せよ。」
 およそ人にものを頼むと言うことをしない半屋が珍しい。だが嘉神がそれに応える筈 もなく。まるで子ども扱いに頭を軽く叩く。
「馬鹿なことを言うんじゃない。だいたい」
 半屋は嘉神の言葉を遮る。彼の手を心底鬱陶しそうに払いのけて。
「正しくねえんだろ。るせぇんだよ!」
 ちょうどエレベーターホールに上へ昇るハコが着く。誰かが押した上ゆきのボタンに 反応して、ドアが開いたところだった。
 半屋は1人でさっさと乗り込み、嘉神が一瞬気を抜いたらさっさとドアを閉じてしま う。嘉神は呆然と無機質なドアと見つめ合うハメになった。
「まったく。」
 見上げると、エレベーターは躊躇もせずに上へ上へ上がっていく。
「……。」




 最上階へと昇るエレベーターの中にはニコチンギレの不機嫌な半屋。ブレーキの壊れ た怪我人ひとり。
 嘉神は身を翻した。後ろの階段を、二段跳ばしで駆け上がっていく。
 踊り場からは針のように細い雨が見えた。朝から曇ってた、空から降りてくる雨が 灰色の町を浄化するのが見えるだろう。
 今は彼と同じ場所に、彼といる。終わりなど信じていないと、本当の心は告げぬま ま階段を駆け上がる。彼よりも先に曇り空への扉を開くために。




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800ヒッツ有り難うございます。白雪純さまのリクエストは“傷を負った半屋君に向き合う 嘉神君”でした。ギャグ満載(嘘)よく考えたら傷浅そう半屋君…。(過ち?)
 嘉神君、ちゃんと向き合ってるのか謎です。イサフシの考える嘉半はこんな感じです。
ちょっと薄情気味。