夏祭      [ a little dragon couldn't fly. ]



 する事もないから自宅の二階ベランダで煙草を吸ってた。堕落してると自分でも 思う。うだるような暑さになにもする気が起きない上に、部屋にクーラーをかける のも頭痛の元になるから厭だ。予定なんかなにもない。
 煙草の火すら暑く思える。半屋が眉間に深い深い皺を寄せて躰を傾けさせた時だ った。
「工ー!電話ー!」
 階下から鬼姉の怒鳴り声がして半屋の目が開く。誰からの電話かは直感で分かる。 半屋は立ち上がる。だらだらと、わざとうっとおしそうな振りをして。


 長い話をうっとおしがるのを知っているから手短に。用件すら削る。半屋は半屋 でそれ以上特に質問を重ねることもない。それでも誘いを断らない。
 呼び出しは6時半。嘉神の住む町の駅。夏休みだから定期券が使えない。半屋は ずるずるとTシャツに腕を通す。なんだかんだ言っても男子高校生、昨日買った 新しいTシャツに、割と気に入ってるリストバンドを合わせる。明日の誘いかと思 ったのに今日の夜。夜からの予定は珍しい。夏休み、暫く会ってない。電話をする ことも来ることもなかったのにベルの音ですぐにわかった。ヤキが廻ってる。そう 思ったけど深く考えるのはやめにした。


 電車の中には浴衣の女の子。藍色の浴衣と上げた髪の白い項。半屋は二三度瞬き をする。夜の風はじっとりと熱を持ってる。
 どこかで夏祭りがあるのだ。そんな催し物の人混みにいい思い出なんかない。苛 々するから人混みは嫌い。自分を含め頭の悪いヤツが一斉に出てくるから不愉快な 思いを必ずする。
 半屋は向かいの窓から外を窺う。浴衣が、沈んでいく夏の夜を浮ついたものにす る。小さな電車の切符を手の中で弄ぶ。


 人の流れの中に立ち止まる。
「……。」
 後ろからの流れに肩を押され、半屋は流れから外れていく。降りたった駅は浴衣 と同じ。まだ昼の熱が冷めずに地面から立ち上る空気は、浮ついたまま商店街へと 続いていく。微かに微かに太鼓が風に乗って届く。半屋は軽くため息をつく。
「半屋。」
 生真面目な声が上から降り注ぐ。振り返って
「!」
 瞬きができなくなった。半屋の目は開いたまま硬直してる。
「なんだ?…暑いな今日も。もう少しすれば夜風も冷えるだろうが。」
 抑揚のない喋り方はいつもと変わらない。嘉神は半屋から、視線を人混みの先へ と移す。
「行くぞ。」
 一方的にそう告げて、半屋の肩に手を置く。半屋ははじめて表情を変える。眉間 に深い皺を刻んで、その手をしっしと払う。肩を抱かれた訳ではないのだが、クソ 暑いのに触るなという意思表示だ。嘉神は意に介さずにさっさと歩き出す。
 気がつけばこの背中を追いかける場面がよくある。でも今日のはいつもと少し違 う。夏祭りで浴衣を着るのはなにも女だけじゃない。
 藍色の浴衣。幅広い肩と大きな背中が綺麗に見えた。裾を蹴上げながら歩いてい く。燻した色の下駄もまるで履き慣れている。新しいTシャツなのに自分はいつも と同じだ。
「突然呼び出して悪かったな。」
 半屋はバックポケットを叩いてる。煙草を忘れた。落ち着きを無くしてる。
「夕食はまだだろう?」
 半屋は苛々とポケットを探ってる。ライターの一つも出てこない。鬼姉にしてや られたのだ。嘉神はため息をついて、半屋の白い頭を一つ叩く。
「にしやがんだよっ!」
 赤くなったのは苛立ちからなのか。
「人の話を聞け。」
「ああ?」
 あまりにガラの悪そうな声音に前のカップルが振り返り、半屋をみて慌てて目を 逸らす。
「夕飯は食べていないのだろう?」
「喰ってねえよ。」
「何にする?」
「はぁ?」
「はあ?ではない。何を食べるか聞いている。」
 あくまでも表情を変えない嘉神に半屋は苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「んでもいいよ。」
 何かを見つけて小走りに人混みを離れようとした半屋の腕を嘉神がつかむ。
「んだよ!」
「こんな時くらい煙草はやめないか!」
 引き寄せられて後頭部をぶつけた嘉神の浴衣の胸元。ちょっといつもと違うだけ。 息が止まりそうだ。


 闇の中の明かりは半屋の良く知る街の夜とは違う。神社の境内にはいっぱいの屋台 。贋物の、今夜だけの明かりなのに、人の息づかいが優しく聞こえるのはそれぞれの 表情が見えるからだ。発電器がブンブン言う。どこでも同じ、祭囃子と迷子の放送。 嘉神が子ども達の頭越しに、ブルーのプールに泳ぐ金魚を見ている。
 人混みの中、ネオンサインよりもずっと混沌とした明かりと色の中ではぐれそう。 屋台に気を取られる子ども。親の手を離したら迷ってしまいそう。彼氏彼女は繋いだ 手を離さない。なんか浮いてる自分。半屋は頭を掻いた。浮かぶ汗をTシャツの袖で 拭った。
「暑いか?」
 いつの間にか目の前に立っている嘉神が団扇を手にしてる。
「配ってた。」
 今までは不機嫌でいれば良かったはずなのに、不機嫌になれない自分は所在ない。 矛盾に混乱しても、周囲と同じように浮き足立った嘉神は答えをくれない。団扇を受 け取って先へ足を伸ばす。同じ様な出店の間を歩く。肩をぶつけた、自分と同じくら いの年のガキが何か言った。眉根に皺を寄せると同時に嘉神に腕を掴まれる。
「子どもが大勢いる。」
 気が抜けた。あっけなく腕を放し、嘉神はもうたこ焼きの屋台の前にいる。年寄 りくさいのかガキなのかよくわからない。見ていないとはぐれそうだ。


 闇の中にマッチの炎がゆらり揺れる。ジュッ、そんな音を立てて、半屋はマッチの 火を消す。境内はあんなに明るいのに、屋台が背を向けた神社の本殿に近い場所はこ んなに暗い。 少し裏手に廻るだけで夜の空に星が見えそうだ。半屋は煙草の煙を吐き出す。スニー カーで砂利をつつきながら。本殿から少しはずれた神社の建物の段差には食べかけの たこ焼き。お節介な大男は見かけた迷子の親を捜しに行ってしまった。浴衣を着た小 さな子どもの手を引いて。
 たこ焼きを持たされ、取り残された半屋が真っ先に捜したのは煙草の自販機だった。 火を付けたのは神社の蝋燭用のマッチ。バチ当たりなんて言う感覚は彼にはない。建 物にもたれて派手な出店の商品名を読むのにも飽きた。たこ焼きの横に腰掛けて、そ のまま、寝ころんで空を見上げた。煙草の煙が風もない空気の中で上へ上へ昇ってい く。
 短くなった煙草を砂利に投げ捨てる。ヤニは手に入れたはずなのにほんの少しの苛 立ちが消えずに胸に残る。腕を投げ出す。耳も目も開いたままで。


 開いたままの耳に、誰かが砂利を踏む音が聞こえる。
「半屋。」
 たった独りの穏やかな足音。
「捜した。」
 半屋の隣に腰掛ける。投げ出した半屋の手になにか握らせる。半屋はそれを顔の上 に持ってくる。透明のスーパーボール。
「さっきの子どもがくれた。」
 半屋は応えずにスーパーボールを握ったまま元のように腕を投げ出す。
「拗ねているのか?」
「…んだそれ?」
 やる気なさそうに呟くと
「呼び出したのに独りにしたから。」
 すまなそうに丸めた背中が見えた。
「んだそりゃ。」
「見つけるのが遅くなってすまない。しかしお前、」
「…んだ?」
「お前は俺を捜す気は全くなかっただろう。」
 半屋の手から力が抜ける。拗ねているのは嘉神の方だろう。
 一筋風が吹いた。嘉神がこっちを向いて目が合う。ガキだ、こいつ。半屋はほんの 少し笑う。
「てめぇが、俺を捜すだろ?」
 嘉神のため息。浴衣の、肩のラインがふわりと下がる。伸ばされた手に目を閉じれ ば頬を浴衣の袖が振れていく。嘉神は無言で半屋の頬と額に触れた。半屋は浴衣の裾 から覗いた嘉神のくるぶしを思い出してた。
 目を開けると相変わらず嘉神の目が自分を見下ろしている。生暖かい風が躰の上を 通りすぎる。静かな声で、嘉神は半屋の手首をつかむ。
「手でも繋ぐか?」
 はぐれないように、見失わないように。
 虚を突かれたように半屋が赤くなるのを見て嘉神がやっと笑う。半屋は舌打ち。跳 ね起きるのを、嘉神は今度は半屋の手を取った。
「んだよ!」
 嬉しそうな嘉神が下駄を脱いで足を投げ出す。鼻緒の痕が赤い。
「もう少し、ここにいさせてくれ。」
「……。」
 さっき思い出した嘉神のくるぶし。平気そうだと思ったのに。全然平気じゃない。 慣れてるのかと思ったのに。それなのに捜させた。
 痛そうな靴擦れを子どものように晒して、嘉神は嬉しそうだ。半屋は黙ってもといた 場所に座り直す。
「たこ焼きがすっかり冷めたな。」
「ああ。」
 後ろに手をついて遠い祭りの喧噪と明かりを眺めた。嘉神が同じ姿勢をとる。




新しいTシャツ。慣れない浴衣。無意識に重なった手はそのまま。

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