「か……み…。」
背中に回した指が汗で滑る。褐色の肌。半屋の声に、嘉神は少し躰を離し、笑った。
その唇。声は聞こえない。だけど読みとる。
「……己一。」



[ a little dragon couldn't fly. ]



嘉神は律儀にも直前、絡んだ躰を引き離した。
別に、構わなかったのに。
嘉神のなら、体内を侵してもけして不快じゃない。
一瞬現実に引き戻された気がしたのに
「たくみ。」
重い甘い声で名前を呼ばれて理性が飛んだ。


「風呂、借りる。」
シャツを躰に羽織って風呂まで歩く。ひたひたと裸足に冷たいのはフローリングとは また違う日本家屋の静けさ。一人で居るには広すぎる。
まだ暖まらない水温の中で眼を閉じる。自分の肩を掴む。他人の体温が残ってる。嘉 神の。対照的な肌の色が描く境界線。くっきりと見えた。
意識してた。
彼の躰を。
彼の表情を。
彼の匂いを。



腕の中の嘉神の頭蓋。短い髪は柔らかく皮膚を押しつけると快い。
ごく自然に刺青にキスをされた。
頭を抱えれば嘉神の鼻先が鎖骨にあたってなんだか笑えた。
嘉神の躰はごつごつと身体にあたった。
柔らかくもなく、互いに受け入れようとするものではない自分たちの同じ躰。
誰かを傷つけるためにあった躰と心。
誰かを護ろうとする心と躰。
ただそこに在って、じっとりと触れあってた。



流れ落ちていく水流。壁に手をついて俯けば排水溝に流れていく。
半屋は顔を上げた。熱い湯を顔から浴びる。
比べるべくもなくいつもより強い倦怠感が躰を支配してる。
だけど心は、鼓動は止まることを知らない。



「帰るのか?」

「ああ。」

嘉神は引き留めなかった。その代わり、けだるい声を残した。


「気を付けて、また明日。」
振り返ったらきっと彼は微笑んでる。


振り返らずに歩く。一人の夜道。
街路灯の消えかけた明かりですら温かくうつる。



俺の名前を忘れないで欲しいと思った。
彼の人の顔を覚えておこうと思った。


笑えない。
そんな思いばかりしている。


覚えている必要などなかったし、面倒なのは厭だった。
誰でもいい。自分も忘れる代わりに、相手も自分のことを覚えてなどいない。セックス の上手い下手だとか、躰の相性だとか、勝手に他人に喋るなら勝手に喋ればいい。
多少の違いを自分は認めなかった。相手が自分を認めようとしても。
明日はもうここにはいないと確信していたから。
明日も同じ顔を見るなんて、考えたこともない。


人のまばらな構内のベンチに腰掛けて電車を待つ。
滑り込む明るい窓の電車を何本か見送る。
帰宅する人々の流れを見送る。
半屋は立ち上がれずに、まだそこにいた。


くすんと鼻をならす。
染みついた煙草の匂い。その隙間に確かに嘉神がいる。

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