[ a little dragon couldn't fly. ]
_桜桃の味。




「まったく、お前はやる気があるのか?」
 嘉神が発したその問は全くの愚問だった。そんなものあるわけが無かった。微塵も。
 西日が射す幼稚園の教室には、小さな椅子と小さな机と、小さなロッカー。壁中に色 とりどりの動物や植物や。
 半屋は床に寝ころんで、首だけをベランダに出している。無理な体勢だし、後頭部は ベランダのコンクリートにあたるから痛いに決まってる。
 だけどこんな体勢でも、嘉神はいい顔をしない。それは当たり前。教室に煙草の匂い が入るから。嘉神は小さな椅子に大きな体を折り曲げて無理矢理座っている。そして躰 を屈めて、小さな机の上で白い画用紙を切っていた。
 いまはもう、子ども達の歓声は聞こえない。青く青く青かった空は今はもう優しい茜 色をしていた。随分と信頼されている嘉神は、戸締まりを任されて今はちいさな幼稚 園に嘉神と半屋二人だけだ。


 でかい図体に似合わず嘉神は器用だった。料理も手芸も上手い。わかってたはずなの に、下書きもなく画用紙を思い通りの形に刻んでいく。さっきまで傍らに座って手許を 見ていた。小さな椅子は窮屈で、妙に清潔感のある空間と時間の流れに居心地の悪さを 感じて煙草に手を付けた。
 こんな場所に自分がいるのもこんな行動も有り得ない。
 嘉神とでなければ有り得ない。


 どうして嘉神は自分といるんだろう。なにかを大切だと思うようになって、明日もこ のままでいたいと思いはじめて、ただ自分が淡々と生きているだけじゃだめになった。
 できれば気付きたくなかった。単に面倒だから。その時々の感情に押し流されてそれ を疑問にも思わずに生きていくのは楽だった。だけど不思議と、戻りたいと思ったこと は一度もない。
 変わりたいと願ったこともないし、そんなことは率先してしたりしない。らしくない ことをわざわざするのは厭だ。なんだか気持ちが悪い。自分の感情は誰にも邪魔させな い。
 だけど気付かずに変わるなら悪くない。


 茜色の空に煙草の煙が吸い込まれていくのを眺めてる。幼い頃の記憶は朧気だ。空が 随分と小さくなった。
 嘉神は青い大きな画用紙にさっき切り離した雲を並べている。その雲の一つ一つに園 児達の描いた絵が貼られる。
 嘉神が笑った。半屋は躰を起こす。


 ベランダに続くガラス戸に背をもたせかけて座っている。嘉神は立ち上がって完成し た青空を壁に貼っている。その姿を半屋は眺めてた。
「半屋は子どもに人気があったな。」
 嘉神はそう言って笑ってる。
「…るせぇ。」
 拗ねたように半屋は応える。
「エリカちゃんが帰りがけに俺の所に来た。」
 壁中に青空。半屋の背後の空は夕闇に沈み始める。
 半屋は“エリカちゃん”を思い出した。ひどく半屋にまとわりついてきた、大人びた 女の子だった。半屋は対処の仕方がわからなくて惑った。
 嘉神はそのエリカちゃんが好きだというアイドルの話をしている。興味がないから半 屋にはよくわからない。とにかく、エリカちゃんの夢はそのアイドルのお嫁さんになる ことらしい。朧気に嫁に行った姉の顔を思い出した。
「だけどやめたらしいぞ。」
 こっちを向いた嘉神は悪戯っぽく笑っていた。明かりが必要だ。嘉神の表情が少し見 えにくい。半屋は立ち上がる。
「んで?」
 大した疑問も持たずに惰性で尋ねる。
「たくみおにいちゃんと結婚するらしいぞ。」
「…はあ?」
 笑いを含んで返ってきた答えは、予想もしないもので。


 半屋に対して酷く世話を焼いた女の子がいた。集団行動のルールを知らない彼に、 途中から嘉神に代わってルールを教えた。
 いい加減飽きた半屋がテラスの端に腰掛ければ質問攻め。そのアイドルの話も聞 いたかもしれない。半屋の名前を聞きたがり、何の気もなく教えると
『たくみくん』
 などと呼ばれて面食らった。子ども相手にとやかく言うのは大人げないだろうか? 自分よりもませているんじゃないかと思われる女の子相手に、半屋はただ戸惑ってる。 くわえた煙草も当然のように咎められた。煩い女とつき合ったことなんか無い。半屋 に意見する女なんか知らないし、ウザイと思ったら、手が出るか無視るかどっちかで 過ごしてきたから。小さな子どものこんな行為に怒りより戸惑いが先立つ。
 そんな自分になる日が来るなんて思ってもみなかった。


 ただの時の流れか、子どもに対しては前からこうだったのか。誰かの影響なのか、 もうわからない。
「それで」
 すべてのものが小さく作られた教室に立つ嘉神はまるでジャイアント。ただでさえ でかいのに。
「俺の所に来た。他の女がお前に寄らないようにみていて欲しいんだそうだ。」
 あーあ。
 半屋は心の中で大きなため息をつく。どうしてこんなに可愛くも都合良くもなんと もない面倒なヤツと一緒にいるんだろう。
 とりあえず手招きしてみれば、巨人は素直にやってくる。だらだらとガラスにもた れた半屋の傍らに膝までつく。一日子どもに対峙して、そのクセが抜けないのだ。呼 ばれて、同じに目線に立とうとする。本当に律儀なヤツ。


 半屋は少し躰を起こす。腹が立つ。嘉神は可笑しそうに笑ってる。今日は随分とら しくない部分を晒させられて、挙げ句人で楽しもうとしてる。
「ちゃんと、言っとけよ。」
 半屋の声はものすごく無愛想だ。
「―――――え?」
 この距離なら嘉神の顔が見える。
「んと、言っとけ、つってんだよその子に。」
 何を、そう尋ねようとして嘉神が言葉を飲み込んだのがわかった。面倒くさがりで いつも言葉の足りない半屋の言外の想いを、嘉神は読みとることができただろうか。
 それ以上なにか言われるのが厭で、半屋は跪くように躰を起こした。最早光が足り ない。教室は闇に沈んでいく。幼稚園前の路沿いの街路灯が明かりを灯す。街の明か りはとっくに灯る頃。
 嘉神の肩に片手を置く。彼の耳に頬を押しつける。思うより柔らかい髪の感触が心 地いい。
「できねー約束なんかすんじゃねえ。」
 小さな小さな声で呟く。長い間のあとに、戸惑うように嘉神の腕が半屋の背中を抱 く。


 バランスを崩してそのまま床に倒れ込んだ。
 半屋を胸の上に載せたまま嘉神は腕を弛めない。力を入れた半屋はいとも簡単に敗 北する。スタミナも瞬発力も動体視力も、この体格差の前には無力だ。
「彼女のライバルは俺か。」
 さも深刻そうに嘉神が呟く。バカヤロウ。そんな台詞が聞きたいんじゃねえ。半屋 は負けを認めたくなくてまだ、嘉神の胸の上でもがいてる。
「…強敵だな。」
 嘉神は自分で言って笑う。サイテーだ、こいつはサイテー野郎だ。半屋は嘉神の胸 を拳で叩く。カワイイもんじゃない。衝撃に嘉神が咽せ込み半屋を解放する。
 ものすごい速さで半屋は飛び起きる。押さえ込まれて勝算があるとは思えない、な んてどうして臨戦態勢なんだろう。
「ったく。やく、帰んぞ。」
 馬鹿げた行為にいたたまれなくて右目の瞼を掻く振りで視線を逸らす。まだ嘉神は 床に伸びたままだ。半屋の拳の衝撃が酷いらしくまだごほごほ言っている。


「反省すべきだな。」
「……。」
「今日の行為は正しくなかった。」
 夜道に煙草の火が灯る。半屋は素知らぬ顔をしてる。
「やっぱり、彼女にきちんと話すべきか?」
 嘉神が神妙に相談を持ちかけてくるから半屋は苦虫をかみつぶしたような顔になる。
「知るかよ。」
「…緊張するな。」
「はぁ?」
 咬み合わない会話に思わず聞き返して、すぐに後悔する。
「隠している訳ではないのだが敢えて誰にも言っていないからな。」
「……。」
 半屋は額を押さえる。厭だ、コイツ。
 目を閉じた瞬間、肩を抱かれて引き寄せられる。少し肌寒いそんな時期だ。ほんの 少しの気の弛みをつかれた。
「だが、有り難いな。半屋が俺と同じ気持ちでいてくれて。」
 振りほどこうとした腕はやっぱり振り解けない。いい加減、嘉神も半屋の行動パタ ーンを学習していて。冗談みたいに戯れても気を抜いたりはしない。
 腕の中で耳まで赤くなった半屋を笑う。生真面目な振りをして、半屋を振り回す。 すれ違う人もいないのをいいことにそのまま駅までの道程を歩く。離せと声に出さな いのは寒いから。いつものように、苦しい言い訳を自分のなかで繰り返して。


「半屋。」
 別れ際、嘉神に呼ばれて振り向いた。切れかけで点滅してる外灯の下。
「今日は悪かった。」
 何に対して謝られているのかはわからなかった。半屋は表情もなく嘉神を見つめたま まで二三度瞬きするとまた身を翻した。

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